「君の髪の色はまるで海に映る夕日のようだね」
と、不意に男性に呼び止められた。
タイの田舎の港町だった。
岩旅ぢぁなくて旅の話
その2 タイのオネェNID
1997年
その年の1月~2月にかけて私はまた一人旅に出ていた。
買った飛行機のチケットは
名古屋→シンガポールそして帰りはバンコク→名古屋
マレー半島の先端シンガポールから半島の付け根にあるバンコクまで
2,000kmくらいかな?
適当に移動する気ままな旅だった。
目的という目的は無かったけど
ただ沢木耕太郎が旅したマレー半島を旅してみたかったのと
(沢木耕太郎の場合はバンコクから南下してたが)
唯一、マレーシアのマラッカでマラッカ海峡に沈む夕日を見てみたかった。
(それも沢木耕太郎の影響だけど・・・)
今となってはマレー半島でどこに旅行に行きたいか
と尋ねられれば
「シンガポール」
と答えるだろうけど
当時の貧乏旅行者の私にとってはシンガポールは綺麗過ぎる街だった。
確かフラフラと街を歩いて
2,000円くらいの安宿を見つけて泊まったのだけど
それがやけに高価に感じたのを覚えている。
とりあえずマーライオンだけは観た。
ただそれだけだった。
早々にシンガポールを去り
バスでマレーシアのマラッカへ。
もちろん
マラッカ海峡に沈む夕日は格別だったが
マラッカで出会ったオーシャンという男の子がものすごく気さくだったのを覚えている。
歳は同じくらいだっただろうか
彼は香港から旅をしていて
一緒にマラッカの街をフラフラしたり
お互いの国のことを話したりした。
一緒にカレーを食いながら夕日を見た。
その後、私は列車でクアラルンプールへ
クアラルンプールも都会だった。
そこからペナン島に移動し何日間か過ごした。
昼間はビーチでゴロゴロ
夜はビール
最高の日々だった。
そしてマラッカよりも夕日が綺麗だった(笑)
ちょっとお高い「フェリンギガーデン」というレストランが非常に美味しくて通った。
ちなみにペナンで泊まっていた宿は1泊25マレーシアリンギット。
今のレートだと600円ちょっと。
当時だとどれくらいだろう。
乗り合いワゴンのようなものに乗り
マレーシアからタイへの国境を越えたが
その途中に車窓から見た景色は今でも忘れない。
ゴムの木だった。
1本ではただの白い幹の細い木だが
それがただただ延々と広大な土地に広がる景色。
いわゆる天然ゴムプランテーションというやつだった。
とにかく何キロ走っても景色が変わらなかった。
赤(土)と白(い幹)と緑(の葉)と青(い空)
その4色のコントラストがいつまでも車窓を流れていた。
それまで中学校の社会の教科書で小さな文字でしか見たことがなかったものが
実際に見るとあまりにも広大で
幻想的にすら感じた。
その後
タイ南部のハートヤイからバスに乗ってソンクラーという町へ
その日のことも良く覚えている。
沢木耕太郎が泊まったその海沿いの町の外れにあるサミラホテルというホテルを目指して
私は延々と炎天下の海沿いを歩いたのだが
なんとサミラホテルは無かった。
というか工事中だった。
「2、3年前から工事してるよ」
と教えてくれた地元のおっさんと
海を見ながら笑った。
しょうがなくまた延々と歩いて町の中心部まで戻って見つけたホテルに泊まったのだが
それがまた大変だった。
部屋にアリが超大発生したのだ。
ベッドの上、下、洗面所まで部屋中アリだらけで寝不足の夜を過ごした。
そんな散々な日の翌日。
その日はとても気持ちのいい風が吹いていたので
またソンクラーの海辺を散歩して
中心部へ戻る途中だった。
「ヘイ!君の髪の色はまるで海に映る夕日のようだね」
と美容院らしき店の前のベンチに座る男性に英語で呼び止められた。
もちろん正常な人間ならばその妖しい声の掛けられ方にある程度の拒否反応を示すだろうが
その日の私は前日の疲れもあり少々判断力が鈍っていた。
何のためらいもなく足を止め
テーブルを挟んで話をした。
(正直その日はやることもなく暇だった)
彼はNIDという名前で確実にオネェだった。
自称美容師兼アーティスト。
歳は24くらいだっただろうか
近々出家を控えていると言っていた。
(タイにおいては、仏教徒の男子はすべて出家するのが社会的に望ましいとされている)
とても穏やかな人柄で
水を出してくれたりした。
途中から変な大阪弁をしゃべるおばちゃんも加わりだいぶ長い間話をした。
(そのおばちゃんは過去に大阪に出稼ぎに行ってたらしい)
とても楽しい時間だった。
しんどい思いしかなかったそのソンクラーという町に
良い思い出ができた。
ちなみにその時の私の髪の色は
新品の10円玉
そんな感じの色だったと思う。
その後も
寄り道をしながらバンコクを目指し
無事旅を終えた。
バンコクについてはまたいつか。